目当ての木の根元で靴を脱ぎ、メロは自分の身長の倍以上もある高さの枝までスルスルと登っていく。その枝の上に立ち上がるとマットに声をかけた。
「ほら、それ持っててやるからこっちに投げろよ」
「うん。いくぞ」
マットは顔を上げ、手にしていた一冊の本をメロにめがけて投げた。上手い具合にバシッと両手ではさんで受け取るとそれをペラペラとめくりながら不思議そうに言った。
「なんだってこんなもの持ってきたんだ?」
そんなメロの問いかけに答えるより先に、マットもまたしっかりとした太い幹に手を回して登り始めた。
ワイミーズハウスの裏庭にあるどっしりとした背の高いこの木はとりわけ上のほうまでも二人の体を支えるに十分な枝を張っていて、メロとマットのお気に入りだった。
初夏を思わせるさわやかな風に吹かれ艶やかな緑の葉は触れ合って心地よい音を鳴らす。
イギリスの空と言えば曇り空の代名詞のように言われるけれど、今日は珍しいほどの青い空が見渡す限り広がっていた。晴れた日に庭でサッカーボールを追うのも楽しくはあったが、今日に限っては休み時間になると言葉を交わして決めたわけでもないのに、すぐに二人はこの木に登りに来たのだった。気持ちの浮き立つようなこの青空に少しでも近づこうとするかのように。
メロの座る枝のわずか下辺りから伸びているちょうどよい枝にマットは乗り上がると、そこにまたがって木の幹に背中からもたれた。ようやく腰を落ち着けたマットへメロは先ほど受け取ったそれを「ほら」と手渡す。
「俺、次は地理の授業だから、この地図帳を使うんだよ」
「ああ、そうか。僕たち午後は別の授業だったな」
納得したようにうなずいてメロはポケットから一枚のチョコレートを取り出すと包み紙を破ってかどを歯で噛みパキッと割った。口元から小さなチョコレートのかけらが下へ落ちていく。それさえも光って見えるほど明るい日差しが降り注いでいた。
「あっ!」
急に弾んだマットの声が響く。
「メロ。飛行機」
つられてメロも空を仰いで言った。
「こんな青空の中を飛んでいくのは気持ちがよさそうだな」
「どこへ行くんだろう」というマットのつぶやきを聞いて、
銀色の機体を目で追いながらメロは裸足のつま先を大きく揺らした。
「僕たちが行ったこともないようなところさ。きっと」
幼くしてワイミーズハウスに来た二人にはイギリスを出る飛行機の行方を想像するだけで途方もなく世界が広がっていくように思えた。
「メロ、いつか一緒にどこかへ行こうよ。飛行機に乗ってイギリスから知らない国に」
このワイミーズハウスにいることに不満があるわけではなかった。でも鮮やかな青空の中を飛び立っていくことを考えたらワクワクと楽しい気持ちが沸き起こってきて思わずマットはそう口にした。
小さな飛行機の姿を見送るとメロは幹に手をかけ、笑顔をマットに向ける。
「どこがいい?」
「どこにしよう」
知っている国の名前を思い巡らせていたマットは膝の上に乗せていた地図帳を広げて言った。
「ここに世界がつまってる。メロ、好きなアルファベットと数字を言って」
「ん?」
チョコレートを口にくわえ、マットの開く地図帳へ視線をやる。
「適当でいいよ」
「じゃあ Lと1」
メロの口にしたアルファベットと数字にニヤリとしながらマットはページをめくる。
各国が載っている地図帳には便宜的にページ上での位置を知るためアルファベットと数字を縦と横に割り振ってあった。マットはメロの言った二つの文字の縦横に交差するところを探した。
「ええっと、Lの1は…… イギリスのリバプールだ。ここはウィンチェスターから列車でも行けるから違うところがいいな。メロ、もう一回」
「そうだな、一番最後のページのMと5は?」
地図帳を反対側から開き、Mと5の交わって示される場所を知るとマットは大きく笑い出した。
「なんだよ。今度はどこだ?」
「南極!」
「南極? うん。いいぞ、面白そうだ」
メロはその場所を気に入ったという顔になってチョコレートをなめた。
「いいのか? 南極にはメロが好きなだけ食べられるチョコレートはなさそうだけど。それでも行く?」
マットはおかしそうに笑いながら言った。その言葉にメロはニッと口の端を上げた。
「それは困るな。マット、旅に出るときにはおまえのポケットにもたくさんのチョコレートを入れて持ってきてくれよ。ほら、そこに入ってるゲームを出して代わりにチョコレートを」
マットのズボンのポケットから少し見えている小さなゲーム機を指差して笑う。すぐさまマットは不満そうな声を上げて首を振った。
「ええっ、やだよ。メロがチョコレートを我慢したらいいだろ。俺のポケットにチョコレートの入る隙間はないよ。俺は南極にだってこれを持っていく」
お互いの言葉にマットはじろりと上目遣いになって、メロは黒い瞳に力を込めて二人は顔を見合わせた。先にマットが口を開いた。
「まあ、一、二枚くらいなら」
「ははっ。頼むぞマット」
鐘の音が響いた。
「もう時間だ!」
二人は慌てて枝から勢いよく飛び降りた。地面には柔らかなクローバーが一面に生えていてメロの裸足の足裏をくすぐった。それを気にもしないで急いで靴を履くと、飛び降りた拍子にポケットから転がり落ちたゲーム機を探すマットを呼んだ。
「行こう。授業が始まる」
「うん」
地図帳を抱え、見つけたゲーム機をポケットにしまいながら返事をする。
すでに走り出していたメロは途中で振り返るともう一度大きな声を出した。
「マット。早く来い」
メロが俺に「来い」と言うのは何度目だろうと、あの日のことを思い出して自然と頬が緩んだが、すぐに唇を固く結んで深くシートに背を当てた。いつもの癖でベストの胸の内ポケットをさぐり煙草のパッケージを取り出す。残り一本。しかし、それを見とがめた乗務員と目が合い、制止を意味する笑顔を見せるので肩をすくめて煙草をポケットに戻した。
俺は飛行機に乗っている。
チョコレートどころか新しい煙草すらポケットに入れる暇もなかった。「おまえも後から来い」と言われ、空港へ向かう途中で携帯電話に「次の便で発つ」とメロからの連絡が入ったのを聞いたときひどく急かされた気持ちになったからで、取るものもとりあえずこうして後を追って飛び乗った。少し遅れは取ったがまだメロも空の上だろう。
禁煙の機内の中では手持ち無沙汰でそばにあるパンフレットを広げた。小さな世界地図が描かれ、LAから出ている一本の矢印の先は、海に浮かぶ小さな国を目指す空路を示している。
「日本か」
俺はつぶやいて、右側にある小さな窓へ顔を近づけた。外はまぶしいほどに晴れていて、煙のような白く薄い雲が翼の下を流れていく。しばらくじっと見つめた。
窓越しの空の青さを目にしながら思う。ワイミーズハウスにいた頃は空を見上げて空想の旅をするだけだった。でも、今はここに―
俺とメロは、同じ青空の中にいる。
この空の旅は子供の頃の俺が地図帳を膝に「一緒にどこかへ」と望んだ旅とは少し違う。でもメロが来いと言うのなら、この青空の旅路を進んでいくつもりだ。
向こうに到着したらキラを追い、一番をにらむメロは空を眺める余裕すらないかもしれない。寒空に飛ぶ銀色の翼を見つけたら教えてやろう。そして、二人で顔を上げてまた話をしよう。
それはそうと日本の冬空は青く晴れ渡ることはあるんだろうか。ふと気になったとき、ちょうど機内のスクリーンの映像は明日の到着時のウェザーニュースに切り替わった。
日本(東京) 快晴
---End---
08.05.09(08.05.04配布)
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