開いたままの扉に気づき、俺はゴーグルをはずして隙間をのぞく。
ニアが床に座っていた。そばには白いパズル。
いつも見慣れた背中── ではなかった。
ニアの手は一向に動かず、ピースは散らばったままだった。
「ニア?」
声をかけて、俺は部屋に入った。
どうしてか暖房がついていなくて、空気はずいぶんと冷えている。
「おはよう。ニア。暖房を入れないのか? 昨晩の雨のせいで、今日はずいぶんと寒いのに」
扉近くの暖房のスイッチをオンにして、俺は肌寒さに両腕をさすりながら尋ねた。
ニアはぼんやりしているのか、それとも考え事をして、俺の声が聞こえていないだけなのか、返事がなかった。
俺はそれ以上近づくこともせず、入り口で様子を伺う。
「どうかした?」
すると、ゆっくりとニアは振り返った。いつもと変わらない表情を一瞬、やるせなさが覆ったようにも見えて、俺はじっとその顔を見やった。
しかし、ニアは、そんな俺から視線を逸らすこともなく言った。
「昨晩、メロがここを出て行きました」
「なっ、なんで?」
すぐにでも、飛び出してメロの部屋へ走って行きたかったけれど、どうしてか足が動かなかった。
この部屋の寒さが体中に染み入って、まるで凍えてしまったかのように。
でも、今更メロの不在を確かめにハウス中を探し回ったとしても、その顔を見ることはできないだろう。
ニアが冗談でそんなことを言うはずもない。
もうメロは、ここにはいない。ニアが言うところの事実だった。
だからといって「ああ、そう」なんて簡単に納得もできなかった。
いつか来る別れの日が、まさか昨日だったという衝撃と、俺は何していただろうという悔しさ。けれど、きっとメロを止めることなどできないという諦め。
さらには、いつだってメロは俺を驚かせてばかりだという怒りにも似た寂しさが、苦しいくらいに胸に広がるのをこらえながら、なんとか俺は声を出した。
「それは、メロがLを継いだっていうこと?」
自分の声じゃないような気がした。
「いいえ
」
無表情のままニアは首を振り、再び俺に背を向けた。
「じゃあ、どうして?」
真っ白なシャツを着たニアの背中に問いかけたかったのか、ただのつぶやきだったのか、メロの行方のように俺の言葉は宙で消えた。
あれほどにLを継ぎたいと熱望していたメロが、ここを出て、いったいどこを目指していったのだろうかと、次第に心配が募る。でも、それを口にはできなかった。
長い沈黙を二人で共有した後、先に口を開いたのはニアだった。
「マット」
立ち尽くす俺を気づかうような、ひどく優しい声で、ほのかな温かみさえ感じた。
「ニアも、ここを出て行くの?」
聞かなくたってわかっていた。いつも部屋に散らばるおもちゃが一つも無かった。
部屋の隅に置かれた木製のタックボックスの中に全部詰め込まれているに違いなかった。
そして、それは、ニアの行く先へと送られるのだろう。
「はい、近いうちに」
メロと同じように、Lを追って?
そう聞く代わりに俺の口から出たのは、全然違う言葉だった。
「この部屋、ずいぶん広かったんだな」
かつてメロのベッドや机も置かれ、よく三人で集まったこの部屋は綺麗に片付けられていて、床に座るニアの姿が心もとなくすら見える。
ニアのタックボックスの蓋がわずかに開いているのが気になって、俺はそちらへと歩いた。
蓋を上から片手で押さえ、レバー式の錠を締めてみようとしたが、中身がつかえ、わずかに隙間ができて、蓋が浮く。
ん? と思い、開いてみれば、蝶番で繋がっている蓋と本体の部分に、うさぎのぬいぐるみの着ている洋服が挟まっていた。
俺はそのぬいぐるみを一旦取り出し、どこも挟まれることのないよう、箱の隙間へと押し込んだ。
そして、気付いた。薄紙に包まれて一番上にそっと置かれている星座盤に。
「これって」
見覚えのあるそれが、懐かしくて、薄紙を丁寧に開いた。
真鍮でできた年代物の星座盤は、実用的というよりは、観賞用に作られたもので、精巧に夜空を飾る星座が彫られている。
どうやってニアがそれを手に入れたのかは知らないが、ずいぶんと気に入っていたことは覚えている。こうして、大事に取り扱われているところからしても。
あの頃、それを手にしたニアが、盤に彫られた星座をなぞっていたり、方角をあわせて盤を回したりしているときは、いつも笑顔だった。
「珍しいものなんだろ?」
そう聞いた俺に、ニアは嬉しそうに頷くと、星座盤を指差した。
「ここを見てください。こんな小さな星座までかたどられているんです」と声を弾ませた。
ああ、でも。その時、聞いた星座の名前を、俺はもう忘れてしまった。
ニアが気に入ったように、アンティークに疎い俺やメロでさえ、それは一目見ただけで素敵な星座盤だと思った。
だから、ニアが星座盤を持ったその年の夏は、よくメロと三人で裏庭へ星を見に行ったんだ。
「あの星座盤をもってこいよ」とメロはニアに言って、夕食を済ませた後、ポケットにお菓子を入れて薄暗くなりつつある裏庭へ向かったのだった。
真鍮のそれはけっこうな重さがあったので、俺たちは交互にそれを持って夏の茂みを通り抜け、高い木々のない場所を選び、柔らかな草の上に寝転んで夜空を見上げた。
イギリスは曇り空が多いなんていわれているけれど、あの頃、俺たちが空を見上げるときはいつもよく晴れていて、こぼれ落ちそうな星々が夜明けまで輝いていた。
俺はタックボックスの中から、星座盤を取り出し、蓋を閉めるとその上に腰掛けた。
ちょうど、パズルの前でうつむくニアと向かい合う。
俺は、片手で時刻と日付の目盛りをクルクルと回した。
夏から春、冬の次に秋の星座を示すように逆に目盛りを回せば、同時に過去の時間へと戻っていくかのように、三人で夏の夜空を眺めながらした様々な話が、溢れんばかりに次々と思い出された。
メロが俺たちを前にして、ポケットに入っているチョコレートが夏の間はいつもすぐに柔らかくなってしまうので、どうしたらいいだろうかと本気で悩んでいたり。
ロンドン塔にまつわる幽霊話を俺が始めたら、とっておきの最後の場面を語る前に、メロが怖がって叫び声を上げたんだった。
Lがパソコン越しに俺たちと話をしてくれた日からしばらくは、誰がLに似ている声を出せるかなんて真似をしてみたりもした。
三人で同じときに植えた朝顔が、一番たくさん花を咲かせるのは誰のものか。星を見た後は、花壇の前で夜明けの中に咲く朝顔の花の数をかぞえた。
庭にあるグミの木から、赤く熟した実を両手いっぱいに摘み、「せいの」で口に入れ、どれだけすっぱさを我慢できるかなんて比べあったりもした。
それに、まだ、たくさん他にも。
俺はちょうど南の空に白鳥座が来るように星座盤の目盛りをあわせると、ようやく暖かくなり始めた部屋でパズルのピースを手にするニアに声をかけた。
「ニア、これを持って星を見に行ったことを覚えてる?」
俺は星座盤を両手で抱えてニアに見せた。すると、今度はニアは笑みを持って答えた。
「ええ、何度か三人で」
「いつだったか、メロが、言ったろ。木星って俺みたいだって」
ニアが小さくうなずく。
「そんなこと言ってましたね」
「どうして? と思ったけどさ」
俺は今も着ているボーダーのTシャツの裾をつまんだ。
「木星には縞模様があるからなんて、メロも笑ったけど、ずいぶん大雑把なたとえだと思わない?」
「そうですね」とニアもまた屈託なく笑った。
「実は、あのとき、俺も似たようなことを考えていたんだ」
ニアの真っ直ぐな視線が、少々照れくさかったけれど、俺は続けた。
「白鳥座のアルビレオ。メロとニアみたいだって」
怪訝そうにニアがわずかに目を見開く。
「何千億キロメートルと離れているのに一つの星のように見えるアルビレオ。金色と蒼白く光る星の二重星」
星座盤を膝の上に乗せたまま盤の表面をニアに向けた。
「二つの星が同じ点を中心としてまわる共通重心を持っていることは、ニアも知ってるよな? まるで、メロとニアが目標とするLを中心に、このハウスで過ごしているみたいだ。どんなにLと遠く離れていてもさ。そんなふうに思ってたんだ」
「マット、あの」
なにか言おうとするニアに、俺は手のひらを向けて言葉をさえぎった。
「でも、メロは出て行った。Lに近づこうと、均衡に引き合う力の中から飛び出して。一番になるって言ってたメロらしい。そして、ニアも行くんだろ。Lの目指したところへ」
俺はそう話しながら、何かがすっと心に落ちた。
地上のアルビレオは、引力すらものともしない。
そういうことなら、ちっとも寂しくない。手の甲で、両目を擦る代わりに、ゴーグルをはめた。
膝の上に置いた星座盤を持ち上げて、俺は指で触れてしまったところに、はあっと息を吐きかけた。そして、Tシャツの袖口で磨いた。
タックボックスから腰を上げ、蓋を開き、星座盤を薄紙にくるみ直すと、静かに蓋を閉めて錠を下ろした。
ニアの傍へと歩み寄る。俺がニアの部屋を覗いたときより、ずっとその表情は晴れやかに見えた。きっと俺も、同じ顔をしているんだろうと思った。
「メロはニアに、さよならと言った?」
「いいえ」
「そう、じゃあ、俺も言わないでおく。ねえ、ニア。また、俺たち一緒に星を見よう。今度は船に乗って海の夜空を見上げるのもいいな。凍った空気の中で光る星を雪の積もった北の地で眺めるのもいい。あの頃みたいに、三人で寝転んで」
---End---
10.09.17(10.08.14配布)
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